稲田豊史の「本を読めなくなった人たち」を読んだ感想です。
現代における、本やテキストの現状と若者の関係に関するルポルタージュで、本を読む人にも読まない人にも刺さる一冊です。
書名:本を読めなくなった人たち コスパとテキストメディアをめぐる現在形
著者:稲田豊史 (1974-)
刊行年:2026年
本や文章を読むという行為の合理性やコストパフォーマンスが低下したことで、本を読む人が少なくなっている。
その背景には、善悪をはっきり断言するショート動画の台頭や、日常的に短い文章に慣れてしまったことがあるだろう。
著者は本書の中で「非読社会」という言葉を使っている。
文章を読むことが合理的ではないとされる社会のことだ。
この本では若者への対面グループインタビューによって、若者たちが本や文章にどう向き合っているかが明らかにされる。
それによると、多くの若者は受動的に情報を受け取る。
流れてきたニュースのタイトルだけ読む。
情報は動画の方が“ながら”ができるので効率が良く、長い文書は面倒なのでChatGPTに要約させる。
私も正直、機械の説明書や契約書を読むのはしんどいのでChatGPTに投げて要約してもらっている。
しかし本は読む。
本書に出てくる若者たちと私との違いはなんだろう?
たぶん、本が好きなのだ。
本が好きだから字を追うことが“合理的”ではなくとも読んでしまう。
私にしてみれば「ゼルダの伝説」というゲームを攻略することは合理的ではないし、時間もかかるしコスパも悪い。
若者たちは時間がないと言うけれど、何に時間を使っているのかとても気になる。
学校やバイトから帰ってきたら速攻寝るだけなんだろうか?
それともショート動画にコスパを見出して楽しんでいるんなら、それでいいと思う。
昔は本以外にエンターテイメントがなかったから、雑誌やコミック、小説や評論など様々なカテゴリーの書物がまんべんなく人々を楽しませていた。
それがショート動画に駆逐されてしまっただけのことだ。
著者の無料抜粋記事への怒りと書籍の衰退への嘆きは、正直かなり強い。
私は出版業界の人間ではないから、無責任だがそれもしょうがないと思う。
マーケティング戦略として、ショート動画やインフルエンサーを使って本を買わせることはできるかもしれないが、それを読ませることはできない。
まさに「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」
このまま紙の本が廃れていけば、価格は上がるが中身のぎっしり詰まった本だけが出版されると思うし、そういった高級本と紙の本愛好家による自己表現としての同人誌の2極化が進むのかもしれない。
私はそれで良いと思う。
この本は、本を読まない人が読むと少し批判されているように感じると思う。
しかしまだ心の何処かに「本を読みたい」という気持ちがある人には最後の勇気づけになるだろう。
本を日常的に読んでいる私が思ったことは、「私はこのまま“本が読める能力”を保ち続けていこう」だ。
本を読むということが能力化していくのなら、このまま持っておいたほうが良い。
そして「わかりみ」を重視した情報を消費するという非知性的な読書ではなく、「おもしろみ」を重視した難解な定義の言葉や複雑なコンテクストを考え抜くという力を養っていきたい。
一言まとめ
「無料化する文章と衰退する書籍」
※本記事は個人的な読書感想・読書メモです。

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